明聖アカデミー関連で書き忘れたことです。

この経営者の最後のコメントというのを、見に行った先のブログにあったリンクを辿って、見てきました。破産に至る経緯をにじませる記載はありませんでした。ただ、この経営者が「徹夜特訓」というのを定期的に行っていることを自慢げに書いている記事がありました。

そもそも徹夜というのは、現役高校生には無理です。(この予備校には現役高校生もいるでしょうから、たとえ夏休み中であれ、高校生に徹夜を押しつけるような「特訓」は、真の特訓ではなく、却って、悪弊を教え込む危険性があるでしょう。)

完全浪人の場合、どうしても生活が乱れがちになりやすいですから、予備校が率先して徹夜を勧めるような「特訓」は論外だと思いました。規則正しい生活を強く押し進めるようにするのが、予備校として要求される倫理ではないでしょうか?

経営者サイドは、多分に、完全夜型でしょうから、徹夜も当間でしょうが、生徒の立場、特に浪人生の置かれた微妙な立場に配慮しなければ、そもそも予備校として業績を上げるのにも支障を生じるでしょう。又、完全夜型の生活を経営者サイドがしているとすれば、少なくともビジネスの観点からは失格者であると思われますので、何れの観点からしても、営利企業として問題があることは予想できたように思われます。

「徹夜特訓」を入学前の広告段階から唱っていたとすると、被害者側にも過失あり、などとされる恐れが全くないとは言えないようです。(;^_^A アセアセ…もし裁判でそういう主張が予備校側から出されたら、厳しく鍛える趣旨と受け止めていたのに過ぎず、経営者に問題ありなどとは予想できなかったし、まして、倒産間近であるなどということを秘匿して強引な勧誘行為を行っていることこそ、欺罔的ではないか、と再抗弁すればいいでしょうね。まあ、個人でやっている塾、学生だけの塾だったら、休み期間中の徹夜もあり!でしょうが…。

尚、明聖アカデミーの続々編です。にコメントを頂いておりますので、その関連もご覧下さい。(._.)オジギ

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切れやすい子供?

ピロリッタのホームページにも書いておりますが、麗士さんが正論をお書きになっていました。

文部省の対応は、自分にとって気にくわない相手だが、自分からはまともな議論が出来ない相手に対して、《psychiatry》を装った暴言を浴びせるという―荒らし屋などがよくやる―典型例の一つに過ぎないでしょうね。

「切れる」と呼ばれる現象も人間行動の一つですから、直接の原因は脳内反応にあるはずですが、だからといって、薬だの、脳外科手術などで「切れる」現象を抑えればいい、というものではないでしょう。その根源は社会的なものであるからです。

文部省のお偉方こそ、いかれているんじゃないの?と言いたくなることですね。

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子育てと「仕事」

子育ては保育園などに任せて仕事に専念するという女性が激増しています。

女性の社会参加と言えば立派そうではあります。でも、そこからの玉突き現象のせいで失業している男性も結構いるのではないでしょうか。ある家庭では夫婦共にバリバリで稼ぎまくっているかと思えば、その隣では夫が失業中で妻がパートに出て得ている安い給料で細々と暮らしている、といった例も多いと思います。

夫が失業中であるとか、未婚の母であるとかするために、女性ではあるが仕事に精を出さなければならない、という場合はあるでしょう。しかし、夫の収入で人並みの生活には十分なのに、妻が外での仕事に精を出し、子育てを放棄しているのには、問題があるのではないでしょうか。

そもそも「子育て」とは、さほどに軽視出来る単純な仕事ではありません。その子供の将来に亘る可能性の大枠を形成する重大な仕事です。自律的な人格形成の糸口を形成出来るかどうかは、幼児期の周囲の大人の対応によって左右されます。それを他人任せにするには、それに増さる重大な事由がなければならないでしょう。

私には、子育てを事実上放棄している女性とは、この重大な仕事から逃避する口実として、外での「仕事」を挙げているにすぎない、と思われる例があるように見えるのです。

それとの関連で言えば、最近、子育て支援が政治上の話題に上ってきている背景には、自律的な子供が各家庭で育てられるのを恐れている政治勢力の存在が見え隠れているようにも思われます。物のように子供を管理する保育園や幼稚園―そういうところばかりではないことは重々承知していますが―に子供を強制的に預けさせる時代が、やがてやってくるかも知れませんね。他律的、はっきり言えば、(権力者側から)操作可能な子供の大量育成の時代、ロボット成人大量出現の時代、この時代が差し迫っているように思われるのです。

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養護学校と性教育

きょういくブログさんのところに、「東京都日野市の都立七生養護学校の性教育の実践に対して、一部都議が教員を恫喝したり産経新聞が事実をゆがめて報道した上、都教委が教材を没収して教職員を処分した事件」に関する記事が載っていました。
きょういくブログ

私の「教育」体験は乏しいもので、空恐ろしい変態不良中学に転校して以来、まともな教育を体験することは、あまりありませんでした。ですから、性教育自体については、余り言うべき言葉を知らないのです。

尤も、「この養護学校では、性への理解を深めさせ、自分や人を大切にする態度の育成を目指して、独自の教材を作成して教育実践をおこなっていました。…七生養護学校の実践は、保護者にも好評だったということです。」ということであれば、賞賛すべきことだと思います。

ただ、私が昔聞いた「養護教育」というものは、きょういくブログさんご指摘の内容とはほど遠いものでした。兎も角体で覚えさせるというのが方針とのことでしたので。今で言えば、児童虐待です。田舎の方にはこういうところがまだあるのではないでしょうか。体で覚えさせれば、確かに社会生活に最小限度対応することが出来るようになるかも知れませんが、そこから引き出される反応とは動物的なそれでしかありません。その典型は、マフィア組織に《white slave》として監禁・虐待されていた子供が解放されて以後も示す反応によく見られるところでしょう。従って、情勢の力関係によっては、極めて危険な行動に出ることにも繋がりかねません。夫婦間、対子供で激情的な行動に出やすい場合があるものです。

性的なものとは、人間を本能の力で動かすものですから、人間支配のためにも悪用されるものでもあります。典型例は、美人局ですね。美人が接近して色目を使い、相手をその気にさせたところで、元締めの手下が登場して、恐喝に入る、という犯罪類型です。最近大流行の出会い系サイトからの余りにも頻繁なメール勧誘も、その一つでしょう。ですから、教育課程に性的なものを持ち込むことには相当慎重でなければならないと思います。

ただ、養護教育の場合には、「自分や人を大切にする態度の育成」のための手段に限りがあります。そういう意味で、本能そのものに近接する―従って又、障害児にとっても理解可能な―性教育を素材にするというのも理解出来ることではあると思います。

この事案の真相は未だ不明の点があるでしょう。ただ、けちをつけている側の顔ぶれからすれば、そのけちの内容は教育目的から見て不当周延以外の何ものでもないであろう、と推定することが出来そうですね。

★下に付いたトラックバックは意味不明ですが、暫く放置しようと思います。(^_^;)★

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「作る会」の策動が続いています。

大人を騙すのは難しいというわけでもないのでしょうが、子供を騙そうとする政治策動が続いていますね。
かつての皇国史観が、如何に多くの国民を欺き、自虐的態度―「滅私奉公」―を醸成したことか!
「作る会」が目指す全体主義とは、個人の尊厳を根こそぎ破壊していこうとするものです。
第二・第三も含めた自民党の後ろ盾を得て、ますます増長し、今度は、国語や地理・家庭科の分野にも進出するそうです。国語については言うまでもありませんが、地理の場合には、地政学的な記述を増やそうというのでしょうか。それとも、頭蓋係数も含めたナチスばりの人種論を展開しようと言うのでしょうか。家庭科の場合には、直截に男尊女卑が出てくることでしょう。

日本に限らず、アメリカなどでも、とんでもない歴史観が子供たちに植え込まれています。血塗られたクリアランスの歴史を正当化してみたり、果ては、進化論を否定して、旧約聖書に依拠してみたりと、見苦しい限りです。そうした成果の一つが、狂犬ブッシュの登場だったでしょう。

「我々は、今、最も暗い時代を生きている。」とウォーリンも述べているそうですが、全く同感ですね。

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「作る会」について、更に

「作る会」が政治的圧力を展開して、各地でその教科書を採用させようとしているそうですね。

皇国史観のように非合理極まるものは、今の成人にはもはや通用し得ないと見て、子供を主たる標的にしようというのでしょう。子供の思想・信条の形成を歪める、客観的真実を探求する姿勢を劣化させるなどといった点から見れば、児童虐待の一種とも言えるでしょう。

ただ、体制側の強力な後押しがあるので、そう簡単に消滅する見込みもないものではあります。米帝側から見ても、アメリカ内部で非合理な歴史観の押しつけを展開しているように、日本国内でも戦争狂を族生させるためには、これまでの教育方針―それさえ、家永教科書訴訟で明らかになったように、不十分なものであったわけですが―を廃棄する必要がある、と指摘されているのでしょう。

義務教育段階で刷り込まれたイデオロギーは、生涯に亘って当人を支配し、よほどに努力を積み重ねなければ、脱却しがたいものです。この点に着眼して、「作る会」が荒れ狂っているのでしょう。

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「作る会」について補説

SENZA FINEさんのブログでは
「大人の国の歴史には、良いことも悪いこともあるのは当然じゃないですか。
そういう歴史の傷(傷の記憶)にもきちんと向かい合う強さや態度を示してこそ大国=大人ではないでしょうか。
と指摘されています。名言ですね!

「作る会」のメンバーに対する教育こそが重要になりそうです。(^_^;)

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教育的な視点

あの忌まわしい「作る会」の教科書について、教育ブログさんで取り上げられています。

その教科書なるものは、天皇制絶対主義を礼賛する腐りきったものに堕落しているようですね。そもそも「作る会」のような腐れ外道集団に「教育」だの「歴史」だのを語る資格はありません。

それにしても、日本国憲法下で、「お上」に逆らってはいけないと(思わせるだけでも)する教科書が学校で採用されることは、本来許されないはずです。東京都教育委員会のメンバーも公務員であり、憲法尊重擁護義務が課せられています。

どこもかしこも膿だらけの体制ですね。

それにしても大切なのは、個々の分野での堡塁を守ることです。教科書採択に関しては、教育的な視点こそがライトアップされるべきでしょう。

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修学旅行にディズニーランド?

修学旅行に、子供が喜びそうで、かつ、娯楽的な要素を組み込む学校というものは、そもそも学校という機能を十全には果たしていないことを自白しているに等しいと思います。

神戸市の学校であれば、阪神大震災の被害地であったでしょう。そうであれば、新潟中越地震の被災地を選び、地震被害の深刻さとそこからの脱出の試みの実相を実地に見学するとかの修学旅行が真っ先に思い浮かぶはずです。さもなくとも、歴史・地理の学習を活性化するような候補地、地層などが露出しているところで地学の実習を行える候補地など、もっと真面目に候補地を先行すべきなのです。

そうはしない・出来ない学校というものは、普段の授業もお粗末・でたらめなのではないでしょうか。学校側の猛省を促したいですね。

教育ブログを参考にさせて貰いました。

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「従軍慰安婦」という言葉がなかった?

自民党の政治屋を中心に、「自虐史観」という言葉が弄ばれています。敗戦までに至る過程での日本軍国主義者の蛮行を批判するのは「自虐史観」でいけないとか、間違っているとかいうものです。

しかし、かかる蛮行を批判する人は、軍国主義者ではないのであり、軍国主義者の蛮行を自ら引き継ごうとする悪人共とも違うのです。ですから、軍国主義を批判する人達にとっては、自虐行為には成らないのです。(強いて言えば、他虐史観となります。)軍国主義の立場に立つ連中にとってのみ、「自虐史観」と映じるに過ぎません。

「自虐史観」などと言う言葉を持ち出すのは、大量殺人事件の被告人が頑強に否認するのと同じです。「慰安婦」という言葉がなかった主張する連中から見れば、確かに言葉自体はなかったでしょう。何故なら、彼らは、慰安婦にされた人々を人間とは思っていなかったからです。大日本憲法下では、天皇主権の国体が何より最優先されましたから、日本国民だって、国策遂行の手段・道具でしかなかったのです。(「一銭五厘」!)ただ、慰安婦として動員されたのは、朝鮮・中国の人が多かったというだけなのです。

「慰安婦」という言葉がなかったと今でさえうそぶく連中は、今も「慰安婦」として動員されている者が多いことを暗示しています。アメリカと同様に、日本も、外交交渉の切り札としては、国際平和を志向する政策論などではなく、下ネタ絡みで相手国代表をたらし込むことに血道を上げています。その際に動員されているのは、歴史的には穢多とされる人が多いように見受けられます。ただ、そうした事実を公的に認めたくないから、「慰安婦」などと言った言葉はないと強弁したいが故に、詭弁を弄しているに過ぎません。

国策上、その指示された相手の(通常は特殊な―少年・少女を慰みものにする―)性的満足を提供することを義務づけられている人、これを「慰安婦」と言うとすれば、慰安婦問題は現代の問題でもあるでしょう。

現実を隠蔽するのに窮して、そういう言葉はないとうそぶくのは、ないとされる言葉で表現される事実が実際に存在することを示しているものです。

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いじめによる自殺

山口県下関市立川中中学校で、2005年4月に女子生徒が校内で自殺した事件で、学校側は5月26日、「女子生徒へのいじめがあった」と認めた。
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教育ブログ
5月28日の記事です。

「首をつった際のスカーフが他人のものだったこと、スカートの腰部に足跡が残っていたことなど」は、自殺であることを明白に示していると言うことが出来ると共に、むしろ他殺ではないかと見るべきかも知れません。学校側は、仕方なしに自殺であることを認めたようですが、他殺であったとしたら、更にことは重大でしょう。今の子供なら、他殺と見るのも不自然ではないでしょう。そうであれば、尚のこと学校側の管理責任も問われるべきです。

仮に自殺であったとしても、人に暴力を振り向けて追い込み、自殺に追い込んだ場合には、被害者側の心身を制圧していたと言えるのですから、被害者自ら為した所為であるように見えても、それをおこなわしめたのは加害者側である、と判断すべき場合は多いと思われます。つまり、殺人罪になるというべきなのですね。

特に暴利貸しに追い込まれて夫婦が自殺したなどのニュースに接するたびに、そう思います。本件に対する見方としても、こうした考え方が大切であり、それこそが、「自殺」した被害者の霊に報いる道だと思います。

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学校の危機管理?

学校での事件、子供を被害者とする事件などが累積してきたために、学校の危機管理ということがクローズアップされやすくなっていますね。まあ、ある意味で無防備に過ぎたという側面もあったことは事実でしょう。しかし、学校が本来的な意味での教育―子供の自律的人格の全面的発展を目指す―を目的に据えるならば、危機管理をスローガンにしてばかりいることは、その本務を忘れることにも繋がりかねないでしょう。

現代社会はポストモダンの社会だと言われることがあります。フォードに始まったオートメーション工場システム―ベルトコンベヤーに乗った流れ作業でことが進み、すべてが決まりに従って計画通りに進む社会―が無効化しつつある社会では、何があっても不思議はなく、従って又、我々がどんなリスクを負担しているか分かったものではないということが一般化してきます。犯罪に限って言えば、こういうタイプがこういう犯罪を犯しやすいなどといったことはそもそも言えなくなっている、無防備で相手をするのが当たり前であった相手こそが、犯罪を仕掛けてくるかも知れない(date rapeとか)、犯罪危険地帯ということが成り立たなくなっている(最近の警察は犯罪マップなどを作っているようですが、時代遅れもいいところです。)、こういう時代になっているとされているのですね。だから、教師も危ない、家族だって危ない、そういう社会なのです。医師にかかったら、却って病気にされたとか、勝手に写真を撮られたとかの報道も目白押しでしょう。

こうした趨勢に対処するために、危機管理的発想で向かうとすれば、すべての場所に監視カメラを設置し、誰もが犯人たり得るのだという姿勢で捜査すべきである、ということになるでしょう。このココログの論調から推察できるでしょうが、犯人が分からないという場合には、むしろ警察官こそを疑うべきである、ということにもなるわけです。だから、私は、この観点がすべていけないとは思わないわけです。

しかし、ここで言う危機管理的発想というものは、当事者の観点を捨象していることが看取できるのではないでしょうか。加害者と被害者が対峙する場面に於いて、被害者にされそうな当事者としてどう対処すべきか、被害に遭ったあとどうすべきか、こうしたことを教育課程で強調するほうが、よほど生産的だと思うのです。何も小学生に空手を習わせるばかりが能ではないと思います。というのは、何か事件に遭遇した子供の訴えをまともに取り上げる親がどれくらいいるかといえば、かなり少ないのではないか、と思われるのです。勿論、毎日報道されている場合には、そうではなくなるわけですが、そもそもそうした報道がなくて済む社会が望ましいわけです。あの奈良女子誘拐事件の場合も、被害者側がいきなり乗り込まずに、もう少し相手と話をしていれば、犯人側が諦めた可能性もあったと思います。理不尽な所為を加えれば、却って自分にも累が及ぶと思わせる対応を採ることが大切ではないでしょうか。それと、事後における対応策を事前に学んでおく必要があるでしょう。

この点で、先に書いた警察が放置して被害者が殺害されてしまった事件などが累積している現状では、警察や法務省には、あれこれ喋々する資格はないのではないでしょうか。むしろ、学校教師が、その本務をしっかりと思い起こして対処していくことが、一番確実だと一応は思われるのですが、学校内でいじめなどが累積している現状から見れば、この線にも期待は持てないかも知れません。家庭にしても、我が子を虐待死に追い込んでいる事例が多いのでは、確かなことは言えません。又、監視体制の強化は、更に進んで、子供に差別と偏見を強く植え込む結果となります。それ自体、未来社会を暗雲立ちこめるものとするのは必定でしょう。それ自体が、教育の本務に逆行することです。

結局、成人社会に於ける諸問題を確実に解決していく努力を積み上げていく過程の一つの成果として、学校などでの問題も解消に向かう、と見るのが筋ではないでしょうか。

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入試について

小学校入試や中学校入試で失敗した子供にとっては、都道府県立の高校入試は、最後の敗者復活戦という意味で重大なものとなります。でも、どこにでもある公立高校入試ということなら、内申書はどうにもなりませんが、入試本番だけならば、確実によい成果を収めることが出来ます。
範囲は限られていますし、過去問も公開されているでしょう。そして、満点を取る必要はさらさら無く、合格最低点でよいわけです。いわば陣取り合戦のように、確実に押さえた範囲を少しずつ増やしていくことです。
ただ、その増やし方には順序とコツがあります。この点を間違えると、徒労となりかねません。目安となるのは(1)教科書の内容をきちんと押さえているか?(2)学校のこれまでのテストを再度行った場合に、合格点を取れるか?という二点です。うろ覚えでいい加減な知識をいくら増やしても無駄です。(入試という関門を控えていなければ、それも大きな肥やしにはなりますが。)確実で常に活性化された(=問題解決に使える)知識を少しずつ増やしていくことが一番確実であり、それが合格最低ラインを越えていれば十分なのです。
地方の県立高校ならば、一ヶ月あれば十分の筈です。それに、全科目まるで駄目という子は少ないので、苦手科目に絞って上記の手法で努力すればよいでしょう。但し、全科目まあまあだけれど、全科目に亘って基礎学力構造に重大な欠陥がある場合には、そう簡単にはいかないでしょう。沼沢地にそのまま高層ビルを建てることは出来ないのと同じで、そういう意味で基礎学力は永く広く効いてくるわけですね。
何とかならないかと種々の業者に当たる場合には、その業者の枠組みに引き込むだけなのかどうかをよく見分けなければならないでしょう。受験するのは子供本人ですから。

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子供にいらだちを覚えることはありませんか?

我が子のことなのに、その言動などにいらだちを覚えることはありませんか?
我が子の実情に照らして、将来が心配になることもあるものです。
成績がふるわないといった程度ならば、克服するのは容易です。何故ふるわないのかを探究して、その源から克服していけばよいからです。尤も、時間がかかる場合が多いでしょう。高校入試の頃になって基礎学力に重大な欠陥があると分かってから何とかしようとすると、「教育産業」に食い物にされて終わることになりかねません。よく吟味して、対応を選択すべきでしょう。
素行に問題があるとか、障害があって健常な日常生活も困難の場合には、尚更に心配になるものです。
素行の問題だからといって、すぐに公的な機関に相談を持ちかけると、却って子供の反発を招いたり、子供がブラックリストに載って、その原因となる事情が解決されても、将来に禍根を残すこともありがちです。だからといって、そのままに放置していては、問題が深刻化するばかりです。本人も気楽に相談出来る人を見つけるのが先決でしょう。
障害のある子の場合には、言いたいこと・したいこと・不満・悩みも捉えがたく、対応に苦慮するばかりです。病院で治して貰えるならば、もう既にそうしているでしょうが、果たして、まだ、どれだけ多くの子供が救われているでしょうか。まして、「公的」な機関の場合には、まだ治せるのに、手話を覚えさせたり、異常に抑鬱的な態度を恒常化させて、広い観点からは新たな「障害」をもたらす場合も多いものです。
「何を言っているのか分からない」「まともな会話が成立しない」などといった悩みは、家庭内で克服出来るものではありません。かといって、公的なところに持ち込むと、その後の(可能な)道筋が狭められてしまいます。「落ち着きのない子」に手を焼いているのは大変ですが、かといって、施設に預けて戻ってきたら、おとなしいけど生気が枯渇していたなどとなっても困るものです。あくまで、子供の自由を解放することに意を用いるべきでしょう。障害のある子は健常とされる子よりも必要以上に緊張しているものです。勿論、その緊張を解きほぐせば足りるものでもありません。果たして、如何に解きほぐすかが問題なのです。長年の経験からそう言えます。
詳しくは、私のホームページをご覧下さい。 http://members.at.infoseek.co.jp/iuscogens/
お母さんが過度に緊張を強いられているために、却って子供に対する対応をぶれさせている場合も多いものです。お母さんの自由も大いに尊重されるべきでしょう。これまでの実践例に照らすと、そのためにも大いに役立つと思います。
尚、私は人との交流に翻弄されたくないので、冷やかし(「公的」な機関からのが多い。)はお断りです。

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