馬鹿は馬鹿なり?

れいしさんのブログネタからヒントを得ました。

「何々は馬鹿!」と言った者こそ馬鹿だ

「『何々は馬鹿!』と言った者こそ馬鹿だ」と言った者こそ馬鹿だ

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と果てしなく続けることが可能ですね。

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これと似た話に、「私(=甲とする。)は嘘つきです。」(この命題を*とする。)というのがあります。

*が本当ならば(つまり、甲が、真実、嘘つきならば)、甲は本当のことを言ったので、嘘つきではないということになります。つまり、*の命題は虚偽命題ということになります。

*が嘘だとすると、甲は正直者であることになります。そうすると、*と矛盾することになります。

何れにしても、「私は嘘つきです。」ということを述べてはいけない、誰もが「私は正直者です。」と言わなければならない、ということになりますね。

以上の次第で、世の中には正直者ばかりが溢れている、という結論になります。(;^_^A アセアセ…

この話は、論理学の初歩でよく出てくる話なので、皆さんご存じでしょうが、意味論のレベルの違いをすり替えて作られた話ではないか、と思います。

似たような話を政治屋などは頻用しているのではないでしょうか?

価値判断の客観性というタイトルに少し取り組んでいた頃、Franz Brentanoだったと思うのですが、「何々は、よい(ここには要するに評価語が来ます。)」という命題は、そう判断する人がいるという存在判断に置換される、という話が出ていました。価値判断は程度概念を不可避的に含むから、このようにして存在判断に置換すれば、そう判断する人の頭数を数えるべし、ということにも成り、ある価値判断を絶対視することを避けることが出来る、とかいう風に、話が更に発展していくネタだと思うのですが、間もなくこの取り組みを中断してしまいました。(; ;)

価値判断をやみくもに相対化してしまい、結局は頭数の問題だとしたり、権力者の価値判断を優先させたりすることが多すぎると思います。だから、価値判断の構成要素を更に分析する姿勢を保つ(=価値判断を頭数や権力の問題にはそう簡単に解消できないように構成する)べきだと思うのです。ただ、そうする場合でも、上記の価値判断と存在判断の置換可能性に留意すべきではないか、と思います。

何だか、話が当初の問題から外れてしまいました。(._.)オジギ

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夫婦論?

どこかのサイトでお勧めブログとして表示されていたので見に行ったブログでは、全裸で暮らす習慣があるので婚姻できないという女性の嘆き(?)が記載されていました。そして、大量の(しょうもない茶化し)コメントも入っていました。

(1)全裸で暮らす習慣そのものについて

熱帯地方には多いのではないかと思いますが、この女性は高層マンションにお住まいだそうなので、当然に冷暖房完備でしょうから、全裸で暮らすとはいっても、現実的にはあり得ないのではないか、と思われます。特に冬場の場合には、冷暖房完備でも、現実的ではないことが分かるでしょう。

アダムとイブは全裸で暮らしていたとされています。全裸で暮らす方が自然であるかも知れません。しかし、それでは周囲に対して余りに無防備ということになるでしょう。家庭内であっても、家具・備品などの関係から些細な事故はあり得ることです。自己防衛のためにも、何かを身につける必要があるでしょう。

(2)婚姻について

この方は、婚姻というものを、両性が文字通り一心同体に近くなることを意味する、と受け取られているのではないでしょうか。全裸で暮らすことについても、両者が進んでそのように暮らさなければならない、さもなければ、離婚するか、さもなければ、そもそも婚姻してはいけなかったのだ、という理解ですね。古典的で理想的な恋愛結婚を前提にしている、と思います。

しかし、現代の冷めた関係を念頭に置けば分かるように、婚姻とは、両性が互いに相手を独立した人格と認め合って共生し、互いに支え合う関係を築き上げることでしょう。そうであれば、両者の独自性を互いに認め合いつつも、共生の関係では譲り合いが必要となるものです。夫婦それぞれに個室を持つのは経済的に困難な場合が多いものですが、この方の場合には、そうした困難はないようです。そうであれば、夫婦となっても、個室では全裸でいて、一緒の部屋ではそれ相応の服装をする、というのには、支障はないのではないか、と思われます。いつもベタ~ッとひっついた関係を想起しているから、婚姻できないという結論に達してしまうだけではないでしょうか?

以上、要するに、妻として共生する自分と、今まで通り独自の生活スタイルを維持する自分を使い分ける形態の婚姻を目指せばいいのではないか、ということです。

どうも、しょうもない話でした。(._.)オジギ

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希望

自愛の心は大切ですね。
自尊心とも言いますね。
自分の本当の姿を知っているのは、当人だけ。
その姿に誇りを持ちましょう。

会話があり、笑顔も―少しは―ある生活
ささやかな希望を持ち続けられる生活
落ち込むたびに、その分だけ夢を膨らませることのできる生活

実行していきたいですね。

心の糧を育むことが生きるという意味でしょう。

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《Vivere sperare est.》

生きるということは希望を持つことである、という意味です。アテネフランセのラテン語初級用教材に載っていた中で、短いし、含蓄があるので、よく覚えています。

SENZA FINEさんが、希望と絶望についてさらりと書かれています。それに触発されて、以下を書きます。
エル・スール、南の光

ライプニッツは「現実とは、可能性の一形態に過ぎない」という趣旨を述べています。(引用元は、ドイツ近世法制史の一端を詳論したもので、プロイセン王国が充実していく過程での裁判官の役割について各種の立場を分析したものです。今、手元にないので、あとで追記するつもりです。)

私は、この言葉の意味を、今目の前に広がっている現実の背後に、いろいろな可能態を想起すべきであり、様々なベクトルが潜在していることを見抜くべきだ、という意味に受け取りました。今、素朴な観察で得られる現実とは仮象の姿なのであり、本質は、広く深い省察を踏まえなければつかみ取ることは出来ないのではないでしょうか。

ヘーゲルが法哲学の序論で現実=理性としたのも、単なる現状肯定ではなく、真の理性の裏付けのあるものが真の現実となるのであり、現実の多様性の中に見出すべき真の現実とは、理性に裏打ちされたものであるはずだ、という意味ではなかったか、と思います。ヘーゲルのこの書物は、当時としては極めてポレーミッシュであって、有り体に言って、喧嘩腰で書いていたと思います。その根源は、市民社会の《現実》に対する深い洞察に裏打ちされていた面もあったように思います。彼は、その解決を国家に期待しましたが、それは、プロイセン王国の現状に丸投げしたものではなかったはずです。しかし又、当時のプロイセン官僚は、ドイツの歴史家が言うように、どぶ板を踏んでまで市民生活の実情をつかもうとする熱意に溢れていたようにも思えるのです。

明治期の日本政府は、ヘーゲル右派のロレンツ・フォン・シュタインなどの影響の下に絶対主義専制政府を確立したとされていますが、その思想的淵源を探っていけば、別の選択肢も十分あり得たと思うのです。むしろ、日本からの留学生が誤解していたとさえ言えるかも知れませんね。

実定法体系を解釈する場合でも、表面的な理解に翻弄されずに、その思想的背景まで辿って踏まえなければ、真の理解は出来ないのであり、的外れの法運用を生みだす結果となるでしょう。

例えば、不法行為の立証責任について、およそ請求を為す者は、自ら立証すべきである、現状を自己に有利に変更しようとする者が立証責任を負うべきである、とされています。しかし、不法行為の場合には、不法行為者の方こそが、自らの暴力によって、自己に有利に現状を改変していたのであり、被害者側は、その不法行為が為されなかった過去の状況を再現して欲しいと願っているだけなのです。裁判外の事態に於いては、不法行為者側が自らの不法行為によって被害者側の状況を改変することを立証すべきだったのであり、その責めを果たさなかったのだから、彼こそが裁判上に於いても立証責任を負担すべきである、と言うべきではないでしょうか。

法体系全体についても、それが前提する社会がそもそも成立していない段階で、不当にもそれを前提し、その上で、現状変更を求める者に立証責任を課すのは、本末転倒である、と思うのです。

およそ「現実」なるものを所与として固化してしまう態度は戒めるべきでしょう。現実そのものの中に、自らを改変していこうとする力が潜在しているはずなのです。それを発見することが、真の法の発見となるはずです。少なくとも、その理論化の試みの足跡を残していくことが、新しい現実を産み出す大きな力になる、と思います。

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孤高を保つ。

窮境に追い込まれたときには、孤高を保つということが一番大切だと思います。

昔の小中学校の通信簿に「協調性」だの「社交性」だのという項目があったように思います。まともな学校ならば、そういう評価もあっていいでしょうが、まともでない学校ではそういう評価はナンセンスだと思っていました。不良ばかりの中学校での協調性だのは、要するに悪事に協力する姿勢を指すだけでしょう。

「弱り目に祟り目」と言われるように、窮境に追い込まれたときほど、種々の悪行が降りかかってくるものです。軽く受け流せればいいのですが、組織的に累積してくる場合は、そうも言ってられなくなります。でも、そこで周章狼狽していては、敵の思うつぼに嵌るだけでしょう。自己の内面に堡塁を築き、そこに沈潜するところから、想像力の力を借りて、創造の高みへ飛翔することが出来るはずです。

類人猿や畜群(Herden)に囲まれた中の人間は孤独なものです。でも、そうした孤独の中にいてこそ、真の創造が可能になる場合も多いのではないでしょうか。

自分の足場をよく見定め、過去の蓄積の中に武器を見出すべきです。孔子が、「学びて思わざるは即ち暗し、思いて学ばざるは即ち危うし」(字句に多少の違いはあるかも知れません。)と言ったとき、彼も又孤立する中にあったのではないでしょうか。その時の心境は、学びに迷い込んだときはよく思い、思いにはまったときはよく学ぶことの大切さ、そして、それによってこそ、窮境を脱出する手掛かりが得られることを言っているように思えます。(実際は違っていたでしょうが、そう解釈してもいいではないか、といったところです。)

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