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《Vivere sperare est.》

生きるということは希望を持つことである、という意味です。アテネフランセのラテン語初級用教材に載っていた中で、短いし、含蓄があるので、よく覚えています。

SENZA FINEさんが、希望と絶望についてさらりと書かれています。それに触発されて、以下を書きます。
エル・スール、南の光

ライプニッツは「現実とは、可能性の一形態に過ぎない」という趣旨を述べています。(引用元は、ドイツ近世法制史の一端を詳論したもので、プロイセン王国が充実していく過程での裁判官の役割について各種の立場を分析したものです。今、手元にないので、あとで追記するつもりです。)

私は、この言葉の意味を、今目の前に広がっている現実の背後に、いろいろな可能態を想起すべきであり、様々なベクトルが潜在していることを見抜くべきだ、という意味に受け取りました。今、素朴な観察で得られる現実とは仮象の姿なのであり、本質は、広く深い省察を踏まえなければつかみ取ることは出来ないのではないでしょうか。

ヘーゲルが法哲学の序論で現実=理性としたのも、単なる現状肯定ではなく、真の理性の裏付けのあるものが真の現実となるのであり、現実の多様性の中に見出すべき真の現実とは、理性に裏打ちされたものであるはずだ、という意味ではなかったか、と思います。ヘーゲルのこの書物は、当時としては極めてポレーミッシュであって、有り体に言って、喧嘩腰で書いていたと思います。その根源は、市民社会の《現実》に対する深い洞察に裏打ちされていた面もあったように思います。彼は、その解決を国家に期待しましたが、それは、プロイセン王国の現状に丸投げしたものではなかったはずです。しかし又、当時のプロイセン官僚は、ドイツの歴史家が言うように、どぶ板を踏んでまで市民生活の実情をつかもうとする熱意に溢れていたようにも思えるのです。

明治期の日本政府は、ヘーゲル右派のロレンツ・フォン・シュタインなどの影響の下に絶対主義専制政府を確立したとされていますが、その思想的淵源を探っていけば、別の選択肢も十分あり得たと思うのです。むしろ、日本からの留学生が誤解していたとさえ言えるかも知れませんね。

実定法体系を解釈する場合でも、表面的な理解に翻弄されずに、その思想的背景まで辿って踏まえなければ、真の理解は出来ないのであり、的外れの法運用を生みだす結果となるでしょう。

例えば、不法行為の立証責任について、およそ請求を為す者は、自ら立証すべきである、現状を自己に有利に変更しようとする者が立証責任を負うべきである、とされています。しかし、不法行為の場合には、不法行為者の方こそが、自らの暴力によって、自己に有利に現状を改変していたのであり、被害者側は、その不法行為が為されなかった過去の状況を再現して欲しいと願っているだけなのです。裁判外の事態に於いては、不法行為者側が自らの不法行為によって被害者側の状況を改変することを立証すべきだったのであり、その責めを果たさなかったのだから、彼こそが裁判上に於いても立証責任を負担すべきである、と言うべきではないでしょうか。

法体系全体についても、それが前提する社会がそもそも成立していない段階で、不当にもそれを前提し、その上で、現状変更を求める者に立証責任を課すのは、本末転倒である、と思うのです。

およそ「現実」なるものを所与として固化してしまう態度は戒めるべきでしょう。現実そのものの中に、自らを改変していこうとする力が潜在しているはずなのです。それを発見することが、真の法の発見となるはずです。少なくとも、その理論化の試みの足跡を残していくことが、新しい現実を産み出す大きな力になる、と思います。

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